→私的思い込みなコミックマーケット思い出話
秋芳美希の名は、ホビー・データ社より使用していますが、私個人での活動は、会社の前に同人ありき。
同人の前に志ありき。
この場を借りて、秋芳の名を語る前からの思い出話を綴らせていただこうと思います。
私の綴る思い出は、あくまでも、私がコミックマーケットに「メッセージ」という形で働きかけ、その後、何かしらの形でコミックマーケットからの反応を確認できた「ような気がする」項目のみの列記です。
この思い出は、1ファンがスターを見て、「きゃー! 私に笑いかけてくれたのよ!!」と主張するようなものです。そもそも私の出したメッセージをコミックマーケット関係者の皆様は読んでいない可能性だって高いわけですし♪
重ねての前置きとなりますが、私とコミックマーケットとは「直接的な接点」はありません。また、故米沢氏とは何の面識もないことだけは、あらかじめ記させていただきます。
同時代に同じようなメッセージをコミケに送った方は、「あ! 私もやった!」等々、ご笑覧いただければ幸いです。
時は1980年代。
米沢氏が代表に成り立ての頃、運営をやめたい……と公言されていた頃がありました。私はまだ一般参加者だったりしましたが、コミケがなくなってはいけない理由を手紙に書いて、準備会(?)に送った覚えがあります。
内容については正確に覚えておりませんが、
○コミックマーケットは、日本中の同人が集まれる場であり、代わりを作ることはできない。
○企業の関わらない創作の場の希少性。
○学校生活等でひっぱくしている者にとって、コミックマーケットという創作・交流の場は、生きる意義と価値とが与えられる貴重な場である。
……なんて、今書くと立派そうですが、当時はもっとたどたどしい文章で書き綴ったと思います。
ともあれ、当時妹の友人を「村八」(……っていってましたね、当時のこの種のいじめは)で失ったばかりの私としては、コミックマーケットの存在自体が稀有のもので、将来の日本にとってなくてはならないものだと、かなり必死であったことだけは覚えてます。
この後、米沢氏が運営をやめたいと公言されたことはないように思います。(←私的思い込みです。念のため)
時は1990年代。
わいせつ図画に関する表現の規制が激しくなり、コミケ存続の危機があった頃。存続のための1パターンサークルとしてコミック・マーケット準備会あてにまたまた手紙を送った覚えがあります。
要旨は、
○わいせつ等、そういう方向に若者の気持ちが向くのは、正常な発達過程であって、代償行為ですますのだからむしろ寛大な目をみてほしい。
○具体的に、煩悩と理性の合体的な行動として、「同人誌売上金の一部をボランティア団体(植林系NGOだったかと;;)に寄付」している。
……とか。今、こう書くと笑っちゃいますが、儲けははっきり言って「ない」サークルをやっていただっただけに、無理して捻出していたような(笑) あ、ちなみに検閲にひっかかるほどわいせつなものは作ってませんでした(爆)
同じ頃、コミック・マーケットでも植林ボランイティアへの寄付金集めが始まっていたように思います。(←私的思い込みです。念のため)
時は2000年代?。
この頃になると、自分の志を具体化するにはPBeMの場の方が有効であると感じて道を移っております。
大した提案はしてないですが、コミケの会場が有明への引越しがなされた時に、サークルからの要望として某駅から会場までの屋根付アーケード設置の要望を出しました。
○この通路を使えばサークル参加者の誘導路にもなり、駅前の混雑が緩和される。
○屋根があるので普段利用者にも雨よけになり、かつ道案内にも役立つ。
……なんて、駅前はもう整備済でしたので絶対無理とは思いつつの夢だったのですが……まさか実現するとは;;(要望出した本人が一番びっくり! そもそもこのアーケード、コミケが関わってないのだとしたら大失礼を!!)
けれど、コミックマーケットは巨大すぎる器となりました。今も、そしてこれからも常に安泰なわけではなく、大変な時代を乗り切るには、その時々に応じた一人一人の助け手が必要なものだと思います。故人を悼む思いもあり、ここに綴らせていただきました。
米沢氏には、よくぞ、このコミックマーケットという大変な場を守り育てていただいたと思います。
そのおかげでどれほどの人が意義をみつけ、素晴らしい人生を歩まれているのでしょう。
本当にお疲れさまでした。
改めましてご冥福をお祈りいたしております。
2006.10.11
秋芳美希
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